母の介護










母の骨折

母は89歳まで横浜でひとり暮らしをしていました。もちろん男が5人女が1人の立派な子持ちです。隣の小さな家に次男が住んでいたので、他の者達も安心でした。次男は離婚してその子供たちもそれぞれに独立していたので、ひとりで気ままに小さな印刷屋を営んでいました。娘の結婚生活で大変苦労して、離婚が成立してホッとしたのでしょう突然に亡くなってしまいました。
そのあとも母はひとりで暮らしていましたが、母は何でも人に頼むより自分でしてしまう人でしたから、その日も団体でおまいりに行くための代金を収めに行ったようでした。そしてタクシーで帰ったまでは良かったのですが、本人に聞いてもどこでどのようにして骨折したのか未だに分らないのです。タクシーの運転手は近所の人にしらせるとそのままいってしまったようです。










入院

母はそのまま救急車で病院に運ばれ、即入院し、手術する事になりました。レントゲン写真を見たときには、大たい骨の骨折よりも大きな財布がおなかに巻かれているのが写っていたのには、居合わせた者みんなで大笑いとなりました。手術は無事に済みほっとしたものです。
私は離れて住んでいましたが子供たちも大きくなっていましたから、週に1度泊りがけで横浜の母の家に行く事にしました。洗濯をしたり掃除をしたり、母の好きそうなものを持って病院に行ったりして、一晩母のいない家に泊まりました。そして、毎日母はひとりで買い物に行ったり、掃除をしたり、ご飯を食べたり寝ていたのかと思い、母の寂しさを実感したものでした。










リハビリ

しばらくして、「リハビリが始まります」と看護婦さんから話がありました。先ずはベッドに座って足の上げ下げの練習から始まりました。何週めかには、簡易便器に座ってトイレの練習も始まりました。その辺まではまあまあ良かったのですが、どうも小さい病院で専任のリハビリ士がいないようなのです。介護士がリハビリの真似のようなことをやっているのです。別の部屋の患者さんも廊下を歩くのがリハビリのようでした。母は耳が少し遠かったので、お医者様や看護婦さんの言う事が聞こえず、意思の疎通がよく出来なかったようです。本人はもう歩く意志がないと判断されて、ある日婦長さんから「これでは寝たきりになってしまうので、ここはそうう病院ではないので、他の病院を捜すように」と言われてしまいました。










再入院

その時点で、母は歩くことは出来ず、お尻の辺りにかなり深い穴のようになった床ずれが出来ていました。家族の中に看ることが出来るものはいないというので、私が家に連れて帰ろうと思い病院探しが始まりました。
病院や市役所などに電話をしていくうちに、比較的私の家の近くにリハビリをしてもらえそうな病院が見つかりました。私は一人娘でしたから、母が一大事の時には自分で見ようと思っていたので、夫には事後承諾のような形で了解してもらいました。平成8年9月に、3ヶ月ほど入院した横浜の病院から車に乗せてそのまま埼玉の私の家の近くの病院に再入院する事になりました。
母はなかなか自分の意見をいう人ではなかったので、半ば強引にこちらに連れてきてしまったのです。初めは母は納得できず、「誰も見舞いにこない」などといって怒っていたようでした。










病院生活

病室は狭い部屋に10台のベッドが並んでいて、ベッドとベッドの間は車椅子がやっと入れるほどで少々窮屈、入院患者は歳も病状もいろいろでした。母は耳の聞こえが悪いのであまり話の中には入れませんが、腰が痛いだけで元気な患者さんが冗談など言って結構明るい雰囲気でした。大勢いるので誰か必ず用事があって看護婦さんや介護士さんがしょっちゅう入ってくるのでかえって安心でした。毎日のようにお見舞いがある人、殆ど誰もこない人、お見舞いに来たお嫁さんとあまり上手くいっていない様子の人、など様々でした。病院の方針で病状の悪い人意外は、日中は私服でベッドや車椅子に座って過ごしました。











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